青年部活動を振り返って

令和4年3月6日

小林 正伸

 卒業例会が中止となり残念ですが、ここによい機会を与えていただきましたので、魚津商工会議所青年部での思い出を少し振り返ってみたいと思います。

 2011年9月2日、時の会長だった藤田先輩の下、第1回臨時総会で入会しました。大学進学から33才までの15年間、新丸子、南馬込、西大井、蒲田で暮らしてきました。大学卒業の頃は山一證券破綻を皮切りに就職氷河期に突入、1年間は試験浪人のフリーターでした。ケレン作業や引っ越し、線路補修、居酒屋のバイトをしながら水道橋の専門学校に通い、1年後に六本木にある事務所に拾ってもらってからは、仕事を終えて夜は学校という生活をしていました。六本木という華やかな街にいるので、よく黒人のポン引きに誘われますが、お金がないので飲みに行く余裕はなく、コンビニ弁当とビール1本を買って帰宅する毎日でした。2次試験に合格して、九段下の事務所に転職しましたが、その頃は金融機関の不良債権処理が盛んで、外資向けの不動産のバルクセールが主な仕事でした。羽田空港に近い蒲田に住んで、全国各地を飛び回りました。あの頃は飛行機、全く怖くなかったんだけどなあ。納期仕事で休暇はほとんどなく、3~4ヶ月休みなしは当たり前、夜10時まで仕事して、同僚と2時まで主に新宿で飲んで会社に戻って仕事ってこともしょっちゅうでした。仕事に100%、遊びに100%と思って暮らしていましたが、頭の中はいつも仕事のことばかりだったような気がします。結婚を機に故郷に戻って、最初はそれまで所属していた会社の支店として開業、リーマンショックを期に取締役を辞任し、独立しました。いざ帰ってきたものの、1年の半分は九段下と門前仲町にある社員寮の往復生活だったこともあり、富山でどうやって生活していくのか、不安も少なくありませんでした。そんな時にOBの浅井先輩から声をかけていただいて、父の勧めもあって入会しました。私の父は仕事ばかりの人でしたので、いわゆる青年団体に所属していたこともなく、自分も入会してみたかったという想いがあったようで、強く勧められたのは意外でした。ほとんど家で夕飯を食べなくなって、文句を言われるようになるまでそれほど時間はかかりませんでしたが。年度途中での入会でしたので、初めて参加した事業が〇〇魚津でした。朝、集合時間に行くと誰もいませんでした。知らない人ばかり、何をしていいのか、迷いながら参加したのを記憶しています。五十井先輩と木内先輩が話しかけてくれて、みんなで鍋売り切ろうと頑張ったのは、イベント参加が初めての身としてはとても新鮮でしたし、疲労困憊でしたが達成感も大きかったです。打ち上げの森井専務のパフォーマンスは最高で衝撃的でした。

 2011年度、2年目、島澤会長、浅尾専務理事。総務委員会所属の理事になりました。荒木委員長と、浅尾専務のお二人にはとても気を使っていただいて、青年部に自然と顔を出すようになったのもお二人のお陰です。富山で全国大会があったのもこの年で、島澤会長と清河先輩と一緒に倉敷にキャラバンに行ったこと、海の駅しんきろうで米騒動の寸劇でおもてなしをされた分科会、大雪の中開催された大懇親会と大勢のバドガールはとても印象に残っています。ブリしゃぶを振舞う担当でしたが、何故かお腹いっぱいになりました。夏頃だったでしょうか。森井先輩から行きたいところがあるから付き合って、ということでついていったところ、新川JCの正副メンバーがいて、一緒に飲ませてもらいました。翌朝、飲みすぎで苦しんでいると来客。昨晩の件で、ということで入会になりました。青年部とJCの違いも分からず、「会議所って2つあるんだ」くらいにしか思っていなかったので、完全になり行きまかせで、特に想いもないまま入会してしまいましたが、今から思えば私にとってとても大きな、ありがたい機会をいただいたなあと思います。

 2012年度、3年目、森井会長、川﨑専務理事。会員親睦増強委員会の委員長を務めました。事業内容は、主に花見、家族例会、入会募集パンフレットの作成でした。花見は大町小学校周辺の歴史散策と八幡神社での宝探し企画で、そのあと魚津総合公園で花見をしました。ものすごく寒いなかの開催となり、テントの横幕のありがたさを痛感しました。屋外バーベキュー、ピザ窯設置など、とても楽しかったです。準備のとき、木内先輩がずっと助けてくれました。でも木内先輩だけでした。委員会メンバーは、なかなか早い時間から集まってもらえませんでした。コンクリートブロック等の片付けも翌日ひとりでやって、正直、青年部やめてやると思ってました。今思えば、メンバーにお願いの仕方も何一つ分かっていなかったし、それだけの人間関係の構築が私にはできていませんでした。この年の家族例会は僕にとってとても大きな意味を持つ例会となりました。それまでホテルを会場にして行っていた例会ですが、人数と予算の関係でどう考えても難しく、そのとき入会してこられた永田先輩に相談して何とかミラージュランドで開催したいとお願いし、助けていただきました。この委員会の打合せで高森くんと夜の観覧者に乗せてもらいましたが、実は内心、めちゃくちゃ怖かったです。当日は110名を超える多くの家族が参加してくれて、委員会メンバーも助けてくれて、みんなで事業をする楽しさを教えてもらいました。加藤監事が、友達のお子さんもたくさん誘って連れてきてくれて、すごい良かったよと言ってくれたのは本当に嬉しかった。入会募集パンフレットは、早くから着手しましたが、意外と苦戦して、何度も取り下げになり、年度末にやっと完成に漕ぎ着けました。

 この年の渉外・広報委員会の事業で親会との交流会がありました。このとき、亡長岡昭男先輩がおっしゃられた言葉がずっと頭から離れません。「お前ら、いつまで勉強ばっかりしとるがよ。何かせーま」。地域の課題は待ったなし。勉強会ばかりして見識を積んでも、行動しなければ何にもならない。そんな端的で分かりやすいメッセージでした。同じ少なくない時間とお金を使って活動しているのであれば、本当の意味で価値のある活動をしたいと強く思いました。同時に、今できることをやらなければと思い始めました。

 2013年度、4年目、有磯会長、愛宕専務理事。森井先輩が有磯先輩に会長職を頼んだら、躊躇せず即決で受けてくれたと聞いて、ほんとにかっこいいと思いました。どうせ受けるなら今受ける、って潔い。感化されて私も総務委員長をその場で受けました。この年、第1回よっしゃ来い!!CHOUROKUまつりが開催。先例のない、新しいイベントの立ち上げで、新川JCも魚津YEGも1日1日が勝負、といった緊張感のなか準備が進められ、大成功を収めました。両団体に所属している人が少ないなか、両団体が魚津というくくりの中で一緒に取り組むイベントができたことは、画期的でした。どちらの団体も魚津の人、魚津を盛り上げる目標に向かって時間とお金を使っている大きな力、将来の魚津の在り方に間違いなく影響を与える力、その他団体も含め、ひとつの目標に向かって一緒に取り組む重要性を感じました。CuriaラーメンのPRとして、富山、滑川、入善、小矢部等、ほんとに多くのイベントに出店したのもよい思い出です。この年の会員親睦増強委員会の事業で1泊2日のスキーに行きましたが、バス乗車からわらじ抜きまで、面白いことしかありませんでした。また行きたかったなあ。この年はビールジョッキがお腹に乗るくらい太りました(川﨑先輩もです)。

 2014年度、5年目、酒井会長、中川専務理事。魚津YEG40周年の記念すべき年で、1年がこの周年事業に向けての活動となりました。稗畠実行委員長の下、副実行委員長を務めました。記念イベント部会長の永田先輩が力強く引っ張っていただいたお陰で、図らずも酒井会長の誕生日、迫りくる台風をはねのけて、見事、チョークアートのギネス世界記録を樹立しました。稗畠実行委員長の運転で東京へ打合せに行ったこともいい思い出です。ほとんど寝ていてごめんなさい。記念イベント前日から妻の親族も福島と秋田から来て参加してもらい、金太郎温泉に宿泊してもらっていたので、打ち上げを早めに切り上げてお礼を兼ねて一杯やったあと、自宅で休んでいたとき、飲み足りない稗畠実行委員長と永田部会長が自宅に現れたのは驚きましたが、じっくり余韻を楽しみ、いい思い出になりました。新川JCでは初めて資質向上委員会の委員長をさせていただきました。心強いメンバーに恵まれ、臨時正副、臨時理事会とかなり議案を揉んでいただきながら、講演会やわんぱく相撲に取り組みました。頭では分かっていてもこなしにかかってしまいがちな自分、手段が目標になりがちな自分、より良い事業に向かって激しく議論を重ねることで、想いが生まれ、決意が固まり、素晴らしい事業に昇華することを教えてもらいました。

 この年、わんぱく相撲が終わって数日後、父が他界しました。40歳にして経験のない分野の仕事でやっていけるかどうか、本当に悩みましたが、稼業を引き継いでやっていく決意をしました。これから一人で何役もやっていかなくてはならない世の中、やれる状況があるのであれば挑戦してみようと思いました。ただ、そう甘いものではなく、何度も失敗をして怒られ、迷惑もおかけしましたし、今もやっとかっとの状態です。ただ、今も続けていられるのは多くの関係者の皆さまの温情と、何よりも青年部やJCで繋がることができたメンバーに助けてもらっているお陰です。どのような会合に行っても、そこには誰か知り合いがいます。何か仕事があったら声をかけてくれます。逆に何かお願いしたい仕事があれば助けてくれます。大きな失敗があっても話をきいて何か力になろうとしてくれます。本当に感謝してもしきれないくらいありがたいことだと思います。

 2015年度、6年目、野村会長、専務理事をさせていただきました。40周年を過ぎ、50周年に向けて走り出す大切な年度で、野村会長が情熱的に引っ張ってもらいました。新川JCでは副理事長ということで日程調整が難しく、両団体の皆さまにはたくさんご迷惑をおかけしてしまいました。特に野村会長、十分な仕事ができなかったのを今も悔やんでいます。そんな中、逆に本当にいろんな場面で助けていただき感謝しています。この年、いろんなことが盛りだくさんで、ほとんど家でご飯を食べていなかったように思います。その中でも宮本委員長の倉本聰氏をお呼びした事業が特に心に残っています。幸せとは何か、どのような暮らし方が幸せなのか、本気で考える機会をいただきました。人を呼び込むためにはまず自分たちの幸せから、地域の魅力とは何か、明確な答えは未だ見えないですが、少しずつでも前進していけたらと思います。

 2016年度、7年目、松倉会長、高森専務理事。政策提言委員会担当の副会長を務めさせていただきました。市の担当課の皆さまが提言書について本気で対応していただいたのには、感謝しかありません。また同時に青年部としての活動の大きさを痛感しました。現在シルバー人材センターの皆さんが空家管理に乗り出していただいたのも、こうした活動があってのことですし、空家バンクの充実、空家実態調査への取り組みもこのときの提言内容です。まだまだ課題はあると思いますが、今できることからすぐ取り組んでいくという市の姿勢には感銘を受けました。また、実際に空家の改修も市の予算を受けて取り組みましたが、様々な業種が力を合わせ、他業種の仕事にも触れることができ、とても良い思い出になりました。政策提言は日本商工会議所青年部の活動の根幹を担う大切な取り組みと位置付けられており、今後もこの動きが活発化していくものと感じています。魚津YEGとしても、様々な問題に提言という形で積極的に取り組んでいってほしいと思います。

 この年は、40周年を迎える富山県連で魚津YEGが県連会長を輩出しなければならない年でした。森井県連会長、高縁専務理事を中心として、周年事業も含め大変忙しい年度を過ごしました。私も初めて県連に出向し、野村先輩が実行委員長を務める40周年実行委員会の運営専務をさせていただきました。単会活動と並行して、ホテルグランミラージュで開催された記念式典・記念祝賀会、魚津国際カントリークラブでのゴルフコンペ、記念誌発行の3大イベントの運営に携わらせてもらい、ほんとに盛りだくさんな内容でしたが、魚津YEG一丸となって取り組んだことで、どれも満足いただける内容となったと思います。私には計り知れないくらい多くの苦労があったと推察されますが、森井県連会長、高縁専務理事、野村実行委員長、本当にお疲れ様でした。県下8単会のメンバーに、魚津らしく、やるときはやる姿を示すことができたのではないかと思いますし、県連メンバーとの交流もその後に繋がる大きな出会いをいただきました。

 2017年度、8年目、谷口会長、永田専務理事。2回目の総務委員長を担当させていただきました。会長、専務のチームワークで単会事業のみならず、県連事業等の対外事業でも楽しい展開が目白押しでした。個人的には2回目の総務委員長で少し要領が分かって余裕があったためか、楽しい委員会にしたいということで、上田くんと一緒に東くんの応援にホットフィールドに行ったり、みんなでレンタカー借りて信州そば打ち体験に行ったり、ほんと楽しかったです。総務委員会の作業もみんなで分担して、みんなでできたので、スムーズな運営ができてよかったと思います。

 2018年度、9年目、会長をさせていただき、特に辻口専務理事には大変お世話になりました。会長をさせていただくなんて思ってもみませんでしたが、先の会長を務められた先輩方の姿、みんなで繋いでいく会という意識が自然に強くなってきて、自分もその渦の中にいると思ったとき、挑戦させていただこうと思いました。私のなかでの単会の活動は委員会活動が中心で、委員会活動が盛り上がれば、会全体も自然と盛り上がります。そのような活動を展開できればと考えスタートしましたが、多くのメンバーが自発的に取り組んでいただき、目指すところの活動ができたのではないかと思います。多くのメンバーに助けていただきました。ありがとうございます。このとき助けていただいた感謝の気持ちを忘れず、これからも何かありましたら微力でも力になりたいと思っています。何かしらの役職を受けることになったとき、自分のやりたいことができるということはもちろんですが、周りを見渡して柔軟に意見を取り入れればもっともっといい事業にしてくれるはずです。会長も専務も副会長も委員長も、これからも皆で支えあう会であってほしいと思います。

 青年部と女性会は商工会議所活動の両輪と大愛会頭がよくおっしゃるように、女性会とのパイプを強化してお互いに協力していきたい、できれば一緒に事業を展開してほしい、とずっと先輩方が引き継いでこられた気持ちがありました。当時の女性会の木下会長とよくコミュニケーションをとることができたお陰で、お互いに協力していこうという気持ちを確認し合い、その想いは今日も繋がっています。木下会長がよくおっしゃっている言葉ですが、性別や世代を超えて協力する姿勢の発信は元気な魚津の源になります。これからもこの両輪の意識をもって、ますます協力の幅を広げていかれる姿を希望をもって見続けたいと思います。

 初めてOB会の旅行もあり、1泊2日で名古屋方面に行きました。最初は結構緊張しましたが、普段あまり交流できない先輩方との交流は新鮮で、昔の青年部の話等、じっくりいろんな話をお聞きできたので、すごくよかったです。

 2019年度、10年目、大﨑会長、吉森専務理事。魚津市との連携で取り組む事業として単年度制を超えた取り組みに挑戦したのが新鮮でした。どうしても青年部は単年度制の団体で、長期的な視点に立った事業展開に適さないところがあります。しかし、事業はそれだけやればいいというのではなく、長期的な計画に基づいて段階的に展開する方が効果が大きいはずです。市にも10年計画があるように、社会状況の変化に伴って途中で変更してもいい、くらいの気持ちを持ちながらも、長期計画をつくっていくのも効果的だと思います。また、青年経済団体として、市との意見交換は非常に有意義です。この年、市役所職員の皆さんと連携して事業に取り組んだことは非常によい取り組みだったと思います。市にお願いすることもありますが、市からのお願いにも応えられる、助け合える関係構築は非常に大切だと感じます。

 富山県連では監事を拝命しました。同期会長でもある富山YEGの村井県連会長ということもあり、また役職が監事ということもあり、全ての事業に参加させていただきました。毎回、ほんとに監事講評がプレッシャーでした。

 2020年度、11年目、荒木会長、高縁専務理事。荒木会長らしい会長スローガン「唯一無二」を掲げてスタートしましたが、コロナ禍で単会運営も、対外的な活動も、非常に難しい1年だったと思います。監事としても十分な役割を果たせなかったですが、そんな中でも、できることはないかとずっと考えてこられた執行部の姿をとても頼もしく見させていただきました。

 2021年度、12年目、愛宕会長、松原専務理事。コロナ禍が長引いてしまい、当初計画も断念をせざるを得ない事態が続きました。最後の年に所属させてもらったパブリック委員会も、対外的に青年部を積極的にPRしていこうと多くの事業計画がありましたが、中止が相次ぎ、非常に残念に思います。しかし、じゃんと来い魚津まつりの代替事業として行われた「未来に繋ぐ蝶六舞台踊りフェス」では、メンバー有志で練習、本番と楽しい時間を共有できたことは最後のよい思い出となりました。

 想えば、12年間、あっという間でした。私の優先順位は役職等で多少変わりはありますが、基本的には①家族、②仕事、③地区の活動、④その他団体活動としてやってきました。皆さんも青年部を卒業して優先順位は変わっても、いろんなところで担う役割が出てきます。まだまだ長いはずの人生、どこかでまた一緒に何かやりたいと思いながら、お先に卒業します。

 私は青年部に、この地域で生きる道を与えてもらいました。本当に感謝です。ありがとうございました。

以上